ブルータリスト / The Brutalist
映画「ブルータリスト(原題:The Brutalist)」を観てきたのだが、自分の思い入れも含めて非常に良い映画体験だったので記録。
この記事は前半「映画を観る前に知ってると楽しみが増えるかもな部分」と後半「映画を観た後に一緒に盛り上がりたい部分」に分けている。後半はもちろんSpoiler alert!なので、各々の状況に合わせて読んでほしい。
映画を観る前に知ってると楽しみが増えるかもな部分
キーワード
映画の時代背景やストーリーや比喩表現については他にたくさん解説記事があるので、基本的にはそちらに任せるとして、キーワードとして知っておくとよさそうなものを箇条書きで記しておく
- ブルータリズム(建築とそれらの世間的な評価)
- バウハウス(特に建築・家具・ビジュアル表現の文脈)
- 1950~70年代のアメリカとユダヤ人コミュニティ
- 現代のトランプ政権による排外主義
ここからは、映画のストーリー自体には直接ほど関係ないが、先に知っているとさらに本作の映画体験を底上げしてくれそうな話をする。
Daniel Blumbergによるフィルムスコア
本作の映画音楽はDaniel Blumbergが制作している。
この名前にピンとくる人はいるだろうか。おそらく映画文脈では難しいのではないかと思う。
2010年前後にイギリスのインディーズ、特にシューゲイザーに片足突っ込みながら青春時代を過ごした人なら「Yuck」というバンドがいたのを覚えているだろうか。もう少しポップ寄りだと「Cajun Dance Party」でもいい。それらでフロントマンをしていたのがDaniel Blumberg。
Cajun Dance Partyはファーストアルバムを出した後に解散し、Yuckもファーストアルバムを出した後にDanielが脱退をしてしまい、その後ソロ作をいろんな名義で公開していた気がするのだが、あまりにも前衛的すぎて遠のいてしまっていた。
その“前衛的”な作品で培った収録技法や構築法が、今回のフィルムスコアに活きている。Danielがこのような形で自分の目の前に戻ってくるとは嬉しいサプライズだった。Ludwig Göranssonにも通づる重厚感も感じる。
あんなに可愛い顔、甘い声でエモーショナルだったのに、こんなに立派になって・・・
これらのサウンドトラックを聴いてもわかるのだが、Overtureの中でも繰り返されるテーマ的なメロディは中盤、最後にかけても異なった形で再構築されて収録されている。これらが本作の中でどのような描写と共に再生されるのか。想像しながら聴いて行くのも良いかもしれない。
VistaVisionの映像
本作、冒頭のクレジットには見慣れた配給会社などのロゴクレジットが並ぶが、その中で目にとまるのが「VistaVision」のクレジット。一つだけ配色も見せ方も少し古臭い。それもそのはずで、このVistaVision自体は1950年代に出現したフィルム撮影の映画フォーマット。
What Is VistaVision? How ‘The Brutalist’ Revived a Beautiful but Cumbersome Film Format - TheWrap
この記事で詳しく語られているのだが、映像のフィルム撮影において、従来は縦方向にロールしたフィルムを流す方式である(フィルムの横幅が映像の画素に対する最大領域となる)のに対し、VistaVisionは横方向にロールすることで従来の横幅が縦幅となり、その分1フレームごとの画素数を上げることができる。という形
イメージしやすいように同じ大きさのフィルムロール図形を縦向き・横向きに配置したが、確かに横幅の辺となっていたものが、縦幅の辺となっているため、横長の映像フォーマットにおいては撮像面積が広がっているのがわかる。
これにより高解像度を実現し、映画館やIMAXシアターなどの大きなスクリーンでもデティールが損なわれずにかなりの没入感を体験することができた。
また、VistaVisionは広角表現にも長けているとの言及がある通りで、本作のように建築物といった歪みのない線の表現が求められる被写体や広大な風景を多用する映画では非常に活きていると感じた。そういった面からも、ぜひ映画館に足を運んでほしい作品だと思った。
インターミッション
本作は215分の上映時間で、本篇100分+インターミッション(休憩)15分+本篇100分 という構成になっている。インターミッションではシアターの明かりもついて、トイレに行ったり、身体を伸ばしたり、話たりとできる。
今も、インド映画などでは割と普通に残っているインターミッションだが、日本(というか近年公開の映画)でこれが体験できるのは珍しいかもしれない。
自分は大学院時代にインドへ留学をしていた際に、現地で何回か映画館に足を運んでいたため、経験したことがあったが、まぁそこまで丁寧に作り込んでいるわけでもなく、バッサリ暗転するか、いきなり画面に”to be continued...”といった文字が出てきて映像が止まるのだが、本作では自然な流れでインターミッションに入り、心落ち着く音楽と共に15分過ごして、また本篇に戻ることができる。
このインターミッションの間、後ろで静かに流れているのもDaniel BlumbergによるIntermissionである。これもめちゃくちゃいい
インターミッションのおかげで集中力を保てるのもそうだし、後半が始まった時にもカジュアルな気持ちで再開することができた。近年は映画自体を前編・後編に分けて上映時期をズラす公開手法もとられるが、1日でイッキ見できるこのスタイルの方が良いなと思った。(もちろん映画2本に分けた方が興行収入が見込めるという大人の事情もあると思うが)
まだ映画を観てない人は一旦ここまで。また後で帰ってきてください。
映画を観た後に一緒に盛り上がりたい部分
ラースロー・トートという存在
観終わり、家に帰ってきてから調べて一番驚いたのは、そもそも完全にフィクションでラースロー・トートという建築家は存在しなかったという事実。びっくりした。
自分は本作の時代背景などは少し調べつつも、ラースロー・トート本人や映画のストーリーについてはほぼ事前知識なしに観たため、伝記映画を観た気分でいたのだが、まんまと騙されてしまった。
思い返せば、映画館のシアターに入ったところからそのミスリードは始まっており、入場者には特典としてラースロー・トートとコミュニティセンターについて記載された(美術館や資料館とかで配られるような)パンフレットを渡されるのだが、席についてからはパンフレットを読みながら待つので、まさか建築家と建物が存在しないとは思いもしないで映画視聴に入ることになる。
実は、映画館からの帰路で歩きながら、
「215分もの時間を使う必要があったのだろうか、、正直後半ちょっと間延びした感もあったし、、、」とか「コンクリート打ちっ放し+差し込んだ光の十字架は、(ブルータリズムではないけれど)日本人として安藤忠雄 光の教会を想起せざるを得ない、、、」とか考えていたのだが、その違和感は正しかった。
どこかの記事で、”215分という映画の長さは、ラースローの30年の年月を物理的に体感する効果をもたらす”的な記載があったが、まさにそれが効果を発揮していたのかもしれない。
エピローグの可否
エピローグについても考えていた。ぶっちゃけ観てすぐは蛇足な印象は否めなかった。というより、この映画は姪のゾフィアが書いた本を原作にしてるから、映画の始まりと終わりがゾフィアで終わるのかと考えていたが、今思えばこれもおそらくミスリードの一環なのだと思う。
何も発言しない(おそらくできない)ラースローが、ただ黙ってゾフィアのスピーチを聞いている表現からも、最終的には”誰が”、”どういう文脈で”、”なんと発言(どう意味付け)するか”が残酷にも記録(歴史)に残っていくのかという恐ろしさも感じた。
自由と偽りの自由
冒頭に手紙の中で語られる、「自由だというけれど、偽りの自由は何よりも隷属的」という言葉も一つのテーマかもしれない。
カトリックに改修して家族経営を偽る従兄弟も、アメリカとその排外的な人々に隷属していたのではないか。ラースロー本人も、建築家としての理想や追求・美学のためなら家族や今の生活を犠牲にしてしまう。エルジェーベトも精神的に自立しながらも足について病院に行っていなかったのは何故か(後半は別のきっかけで病院に行ったことから補助器具があれば歩けるくらいに回復していた)。ハリーも何不自由ない身分のはずなのに父親からの評価に固執し、それが人生の全てかのように振る舞う。