マニフェスト / Manifesto
自分の作品を置いておくポートフォリオ的な用途で作ったものの、久しく更新していなかったこのサイト。サイトの設計や導線も作り直し、普段友人との会話の中で話したり、日記に書き留めていた事柄を書いていくことにした。
自分は飽きっぽく、”なぜ始めたのか”をすぐに忘れがちなので、現時点で思っていることを書き留めておく。
誰かのブログおじさんになるために
中学、高校とPCにのめり込んだ学生時代を過ごした自分にとって、インターネットは知らない世界への入り口であり、問答相手であった。その頃のインターネットの使われ方は、「掲示板やオンラインコミュニティでの交流」や「調べ物(ネットサーフィン)」で、当時の自分は前者に全く興味がなかったため、誰に頼まれるでもなく延々とググり続けていた。
その活動の中で、好きな検索ワードは「〇〇 ブログ」だった(〇〇には検索対象であるもの・事象が入る)。何かしらのガジェットや時事ネタについて調べるときにも、”ブログ”というキーワードは、どこかにいる誰かの1意見を聞きにいける魅力的なキーワードだった。
今思い返すと、とても非効率だったと思う。
1ページで得られるのは1意見だし、大手のウェブメディアやまとめ記事を読めば、すでに同じ行為をした人間の結論にありつけたし、雑誌をひらけば識者の意見を探すことができた。今であればそこにYouTubeのコンテンツも含まれるだろう。
でも、その一人ひとりの意見に自ら目を通し、自分の頭の中で感覚的な統計をとり、結論を見出す行為が好きで仕方なかったし、やらないと気が済まなかった。
当時の自分のそんな行為を支えていたのが無数の”ブログおじさん”達である。おじさんと言っているが、女性もいたし若い人もいたが、愛着を持ってそう呼んでいる。彼ら/彼女らは誰に頼まれたわけでもなく、自分のドメインで記事を書き続ける。ほとんど一人語りである。だがその語りにもこれまでの経験や知識が滲み出ているのである。自ずとそういうことをしている人たちはニッチであり、何かに対する偏愛もあり、”そこにしかない”情報を持っていた。
ただ、最近そういった書き手は明らかに減っている(幾つものRSSが更新されずに止まったまま)と感じるし、個人が運営しているブログなんて(そもそもSEOを考えて運営してるわけでもなく)検索の順位も下がりつつある。しまいには昨今のLLMの学習に使われるのだ。
でも、生成AIが出力する”80点の正解”を見るのに飽きた人が、またググることを始めた時に行き着くことのできるn=1の1意見になれるように、自分がそのブログおじさんになるのもいいかなと思った。
自分でモデレーションできる領域を確保する
TwitterがXになり、ユーザーが分散して かたやMastodon、もうかたやBluesky、そしてThreadsに散らばった。プラットフォームとなるインターネットサービスの脆さと軸足の置けなさを目の当たりにして、改めて自分のコントロール下における領域を確保することの大切さを感じた。人が集まることでその効果を発揮していたSNSが分断している今のタイミングであれば、また各々が自分のドメインを持つ流れになっても面白いんじゃないかと思う。
女子高生がプロフをデコり、大学生がMySpaceをカスタマイズしていたあの頃のような。
技術革新によって置き換えられつつある行為をあえてする
ここ最近、文章を書くことが本当に減った。仕事の中でもLLMを利用して文章の敲きを出力して、”自分だったらこう言う”といった自分ナイズドをして提出することも増えた。今後はさらに人間のタスクの技術への置き換えが加速すると思う。いや、資本主義の中では効率化を求められるので、そうせざるを得ない。
今はその過渡期にいて、技術も未熟だからこそ、片腕としてLLMを利用しつつも最後には自分ナイズドしているわけだが、果たしてこの技術革新が進んだ先で、人間による修正作業すら必要なくなった時に、自分ナイズドして表現していた自分というアイデンティティは保たれるのだろうか。そもそも”自分ナイズド”というのは、自分で手を動かしていた時代を経てるからできることで、LLM(もしくはそれに似た技術)が最初から100%の答えを出すようになった時代がネイティブの人たちは、どこで”自分色”を出すことができるのだろうか。
だからこそ、そういった力学の働かないこの領域であえて、自分の文章を書き続けることで、自分のアイデンティティを保つことができるんじゃないかと、仮説レベルだが思っている。
今、個人が改めて自らメディアを運営(サイト構築・運営・ドメイン取得・コンテンツ更新)していくのはカロリーもコストもかかるのだが、上記理由からやってみてもいいんじゃないかと重い腰を上げた次第である。